かつて世界的に有名な俳優がハリウッド映画で活躍をしていました。
その人の名前は「チャーリー・チャップリン」。
山高帽にチョビひげ、そしてコートにだぶだぶのズボン、大きな靴にステッキを持ち、よたよたと歩く姿は多くの人たちへその姿を印象づけました。
映画に興味がない人でも知っているかもしれません。
貧しい家庭に生まれたチャップリン
(出典:grooveinlife.com/)
映画の俳優というよりもパフォーマー的な風貌。
チャップリンの映画は笑わせながらも感動させる不思議な世界観を持っており、現在でも世界中の人々を魅了し続けています。
そんな彼ですが、過去には暗殺されそうになったりしたことも…
また、ある日本人との出会いから親日家になり、彼の人生は大きくかわりました。
1889年4月16日、ロンドンのウィルワークで産声が上がりました。この世に性をうけたチャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin KBE)。
父親はチャールズ・チャップリン、母親はハナ・ヒルの間に誕生しました。二人は舞台芸人をしていましたが、生活はとても苦しく貧しい日々を過ごしていました。
生活の苦しさからでしょうか、すれ違いも多くなっていき両親は離婚。チャップリンが1歳のときでした。
それから11年の月日が流れます。チャップリンも貧しいながらもすくすくと成長します。しかし不幸が襲いました。父親がアルコール依存症で死亡したのです。
深い悲しみと金銭面でさらに苦しくなったチャップリン。
母親はチャップリンと4歳年上の兄(異父)を育てますが、極貧生活と栄養失調が原因で精神に異常をきたし、精神病院へ。残された二人は孤児院や貧民院を転々としていました。
チャップリン 名言
「わたしは貧乏をいいものだとも、人間を向上させるものだとも考えたことはない。貧乏がわたしに教えたものは、なんでも物をひねくれて考えること、そしてまた、金持ちやいわゆる上流階級の美徳、長所に対するひどい買いかぶりという、ただそれだけだった」
貧乏が彼の心を不幸にしていったようです。
貧しい幼少期がチャップリンの人格に大きな影響を与えていました。暗く切ない世界の中へ入ってくチャップリン。
でも、彼は両親の背中をしっかりとみていました。
両親の感性を受け継いだチャップリンは、早くから舞台に立つことで家計を支えていたのです。初舞台は5歳のときでした。舞台で突然声が出なくなった母親。そこでチャップリンが急遽ステージに登場して歌を披露したエピソードもあります。
10歳でエイト・ランカシャー・ラッズ劇団に入団。
タップダンサーとして知名度を高めていきます。1908年にはフレッド・カーノー劇団に入団し、パントマイムの技術を磨きました。
パントマイムを一度はしてみたことがあるのではないでしょうか?前に見えない壁があったり、空気椅子に座ってみたり、階段がそこにないのに階段をおりてみせたり。
チャップリンは「酔っぱらい」の演技で特に人気を集め、一流のコメディアンに成長していきます。
ハリウッドに渡るチャップリン
1912年、喜劇映画界では名の知れたマーク・セネットの目にチャップリンが止まりました。セネットは喜劇専門の映画製作会社であるキーストン社の監督/プロデューサーだった人物です。
チャップリンは「成功争ひ(Making A Living)」のペテン師役で映画デビューを果たします。ヒットを飛ばし、1年間キーストン社に所属。その後は34本の短編映画に出演することができました。
そして、「ヴェニスの子供自動車競争(Kid Auto Raves At Venice)」で、放浪者にして紳士である「放浪紳士チャーリー」を演じることで爆発的なヒット。お馴染みのキャラクターが多くの人たちへ認識されました。
(出典:upload.wikimedia.org)
チャップリンの名言
「小さな口髭は自分の虚栄心、不格好で窮屈な上着とダブダブのズボンは人間が持つ愚かしさと不器用さ、同時に物質的な貧しさにあっても品位を維持しようとする人間の必死のプライド。そして大きなドタ靴は貧困にあえいだ幼い頃の忘れえぬ思い出だ。それが僕に閃いた人間の個性なのだ」
チャップリンと言えば、すぐに独特の格好を思い浮かべますが、あの姿はまさに彼の幼少期を物語っていたのです。
チャップリンの独裁者気質?
チャップリンは映画界で力をつけていました。その結果、他の映画会社から次々と引き抜かれ、その度にギャラも上がっていきました。
1915年には週給1000ドルで移籍し、14本の短編で監督・主演を務めました。翌年には週給1万ドルにアップ。12本の映画を製作します。1918年には、ついに独立することができ、自分の撮影所を設立。
ハリウッドのスーパースターに上り詰めました。自分で好きなように映画を撮ることができることで、当初のドタバタ劇から、「喜劇は人を泣かせることもできる」という自分の信念、自分が本当に作りたかった作品を作るようになります。
彼の作品は、社会的なメッセージと人間が持つ内面をうまく調合させ、その中で笑いと感動を入り混ぜる独特の作品が確立されていきます。
ただ、チャップリンはわずか数秒のシーンを納得のいくまで何百回と撮り直していました。少しでも無駄な演技のシーンは大胆にカットするのも日常的。
業界随一の完璧主義者と呼ばれていました。
NGがでたフィルムはほとんど焼却していたほどだとも言われているので、半ば独裁者的な思考があったのかもしれません。ハードなプロ意識といったものでしょうか。
大の親日家であるチャップリン
チャップリンの人生は日本なしでは語れないと言われるほどの親日家でした。
1926年の秋ごろ、チャップリンは在米日本人の高野虎市さんを運転手として採用しました。このことがきっかけになり、彼の人生は大きく変わることになります。
っというのも、チャップリン自体はもともと親日家というわけではありませんでした。
かといって、特に日本人を嫌いだというわけでもなく、チャップリンが日本人の運転手を採用したのは、人種に対して偏見がなかったからだと言われています。
高野虎市の人物像
高野虎市さんとはどのような人なのでしょうか?
1885年に広島県で産声があがりました。高野虎市さんの誕生です。彼はチャップリンとは違い、裕福な家庭で育ちました。そして15歳のときに親には「留学をしてくる」と称して、自由を求めて渡米します。
裕福な家庭は家庭でさまざまな問題を抱えていたのでしょう。彼はその場所から逃げ出したいと考えていたのです。それ以来、高野虎市さんは米国で生活を続けていました。
チャップリンに信頼される高野虎市
チャップリンは高野虎市さんを運転手として採用しましたが、仕事はそれだけにとどまりません。経理、秘書、護衛、看護師などさまざまな仕事を任せていたのです。
これだけのことをこなせる高野虎市さんも恐るべし…
チャップリンの身の回りのことはほとんどしていました。高野虎市さんは映画にもわき役で出演したこともあります。
長男にはチャップリンのミドルネームからスペンサーという名前がつけられ、チャップリンの遺書のなかで、遺産相続人のひとりに高野虎市さんが選ばれるほど、絶大なる信頼を得ていたのです。
「チャップリンは感動した」
日本人の仕事に対する姿勢が他の国の人にはない忠実さがあると。日本人は仕事に対して真面目だと認識するようになります。
高野さん誠実な人柄や勤勉な仕事ぶりに感心したチャップリン。
彼は使用人を次々と日本人に変えていきました。1926年頃には使用人のすべてが日本人になっていたとも。それほどまでに日本人を信頼していたのです。
日本に来日するチャップリン
突然、世界旅行をはじめたチャップリンですが、その中には憧れの日本旅行も含まれていました。
1932年5月のこと。
ついにチャップリンが日本の土を踏むことになります。日本旅行はとても楽しいものでした。その後、チャップリンは1936年3月と同年5月、戦後の61年6月と生涯で4度の来日を果たしています。
歌舞伎や相撲など日本の伝統文化を気に入り、西陣織の羽織をガウンとして愛用していました。
また、天ぷらは特に気に入り母国に帰っては天ぷらについて熱く語るなど、好んで食べていました。天つゆを自分で作るほどです。
チャップリンが映画のなかで愛用しているステッキがあり、しなりが強いのが特徴ですが、実は滋賀県産の竹で作られていたものです。
竹根鞭細工と呼ばれる滋賀の特産品で、明治初期から海外に輸出されています。当時、ロンドンではステッキを「キムラ」と呼ぶほど爆発的なヒットを飛ばしていた日本製の商品です。
チャップリンに起きる暗殺未遂事件「五・一五」
「二・二六事件」と同列に語られる「五・一五事件」。戦前の日本で起きたクーデター事件ですが、なんとチャップリンが関わっていたことがわかっています。
1932年に起きた「五・一五事件」とは、大日本帝国海軍の急進派である青年将校たちが首相官邸に乱入し、護憲運動を進めた犬飼毅首相を暗殺した事件です。
このことで日本の政治は力を失い日本は軍部主導の体制に変わりました。そして戦争へと突入してしまうのです。
この「五・一五事件」が起こった当時にチャップリンは偶然にも日本を訪れていました。そして、チャップリン自身が暗殺の標的になっていたのです。
なぜ、チャップリンが狙われた?
事件を起こした首謀者たちは外国文化の象徴であるチャップリンを暗殺することで、米国をはじめとした世界中に衝撃を与えると考えていました。
つまり、チャップリンを暗殺することで、それに怒ったアメリカと「日米開戦」にもちこみ、世界全体を改革することを目的にしていたといいます。
チャップリンは国際的スターです。世界中で多くの人が知っています。それだけではなく資産家です。世界の金融経済に大きな影響力を持っている人物。事件を起こした側にとってはこの上ない暗殺のターゲットでした。
とんでもないことが、この日本で起きていたのです。
日本では、犬飼毅首相との面会とパーティーが予定されていました。高野虎市さんは日本で起きている異様な空気を感じていました。世界旅行中に一足早く日本を訪れて、犬飼毅首相の息子である犬飼健首相秘書官に相談しました。
チャップリンと犬飼首相の会談は、チャップリンが親日家であることを強調することで日本の右翼勢力の見方を変えるように誘導。チャップリンの身の安全を守ろうと動いていました。
チャップリンはジャワ滞在中に熱病にかかります。日本到着予定が遅れたため、暗殺の標的から外されました。しかし、結局船が快調に進み14日の朝に神戸に到着。
首相との会談は事件当日の15日夜に首相官邸にて行われることに決定。これは首相官邸襲撃のタイミングに重なっています。再びチャップリンの身に危険が迫っていました。
でも、チャップリンは自由人。日頃から気まぐれなチャップリンは当日になって突然相撲に行きたいと言い出したのです。ホスト国としては急なスケジュールの変更は困ります。でもお客さんなので最大限の意向を叶えたい。
そこで首相との会談は延期。
このことでチャップリンは暗殺を逃れることができたのです。予定どおりに会談をしていたらチャップリンは日本で暗殺されていたかもしれません。日英関係にも大きな悪影響を与え、後のアメリカとの戦争にもイギリスが大きく存在感を出していた可能性があります。
ちなみに、14日に日本へ到着したチャップリンは東京に直行しました。そして皇居に一礼しています。この一礼は当時の新聞に大々的に報道されました。実はこれも作戦。
高野さん「車から降りて皇居を拝んでください」と指示を出していたのです。チャップリンは「なぜ?」と思いながら腑に落ちないまま礼をしました。
でも、これも親日家を印象付けるため、チャップリンを過激派から守る行動だったのです。
事件後もチャップリンは日本観光を続け、歌舞伎座と明治座で伝統芸能を鑑賞しました。事件後も来日してくれるほどの親日家。
まとめ
チャップリンの人生を変えた日本人。
チャップリンはもともと日本には興味がありませんでした。でも、運転手に高野虎市さんを採用してから人生が大きく変わることになります。
1934年に高野さんはチャールズに解雇されました。その理由は、チャールズの妻であるポーレット・ゴダードの浪費癖を注意したことが原因だと言われています。
一度は解雇をしたものの、チャップリンは高野さんを解雇したことを後悔し続けていました。何度か高野さんの元へ行きましたが、彼がチャップリンの元へ戻ることはありませんでした。
その後、広島県へ帰国した高野さんは、1971年に86歳で死去。亡くなったことを耳にしたチャップリンはひどく落ち込んだと言います。
チャールズの娘、ジョゼフィン・チャップリン
「父(チャールズ・チャップリン)は晩年まで彼(高野)のことを忘れていませんでした。彼が亡くなったと聞いて、父は悲しみにくれていました。父の親友でしたからね。いつも傍らにいてくれたとてもいい友人が、ある日突然、別世界へ行ってしまった。そんな感じだったようです」