天正伊賀の乱は、忍者が活躍した戦いとして知られています。
「忍びは諜報活動、破壊活動、暗殺などをしていた!」
通常は大名や権力者に仕えることが多かったです。屋根裏や敵の中に潜んでスパイ活動をしたり、直接戦いに参加もしました。
「侍が太陽なら忍者は月」
忍者は影の中で生きる特異性から歴史の表舞台には残らないことが多いです。忍者は単独で行動するタイプと集団で行動するタイプに分けられますが、集団で行動する忍者で有名な組織が伊賀衆や甲賀衆の忍びです。
2回の戦をした天正伊賀の乱の戦いとは
忍者が活躍した戦があります。
「天正伊賀の乱」
天正伊賀の乱は、天正6年(1578年)の天正時代に起きた伊賀国での戦いで、織田家と伊賀国が争いました。
しかもこの戦いは、天正9年(1581年)と2回起きています。元号が「天正」のため、1回と2回の戦いをまとめて「天正伊賀の乱」と呼んでいます。
どちらが勝ったのでしょうか?
「侍?忍者?」
第一次天正伊賀の乱 侍VS忍者
1回目は織田信長が天下布武にまい進していた時期に起きます。
織田信長は当時、美濃国の岐阜城に住んでいました。今で言うと岐阜県岐阜市にあたります。伊賀国は現在の三重県です。
織田信長が当時戦っていた武田氏は甲斐国、毛利氏は中国地方一帯をテリトリーにしていましたが…。
織田信長が住んでるところから伊賀国は近いです。武田氏や毛利氏よりも織田信長の近くに伊賀国が存在しています。
ところが織田信長は伊賀国に攻め込むことはありませんでした。
「なぜ?」
織田信長は有力な戦国大名に勝利をして版図を広げることにあったため。有名人を倒すことで自分の名を広めようとしていました。そのため、武田氏や毛利氏の戦いを最優先していたのです。
伊賀国はたくさんの領主がいて、大きさもそこまでない小国でした。
伊賀国にいるそれぞれの勢力は織田信長がすぐに脅威を感じるほどではなかったと考えられています。織田信長にとって伊賀国は邪魔な存在でしたが、急ぐ必要はないと判断していた可能性が高いです。
しかし、織田信長と伊賀国は衝突。
天正4年(1576年)に伊賀国の隣国である伊勢国を、織田信長の次男である織田信雄が支配下に置きました。そして、織田信雄が動いた策が伊賀国丸山城の修築。
丸山城の修築を知った伊賀国の領主たちは、伊勢国の次は伊賀国が侵略されると考え、1578年(天正6年)10月に丸山城を急襲しました。
「織田信雄はどうなったの?」
丸山城にいたのは織田信雄の重臣であった滝川雄利。
滝川雄利は丸山城を捨てて伊勢国に逃げていきました。
この時に城を攻め込んだのが伊賀衆の忍者。
忍者の活躍により、丸山城は半日程度で伊賀国の領主たちの手に渡ったと言われています。伊賀国を後回しにしていた織田信長が怒ってそう…
「織田信長は激怒していた」
天正7年(1579年)9月には改めて8千人の兵を率いて伊賀国に侵攻。そして、伊賀国の領主たちは力を合わせて織田信長に徹底抗戦します。
忍びの活躍で戦いは数日で終わります。
織田信雄は伊勢国に敗走して伊賀国が勝利!
「忍者が侍に勝った!」
しかし、実は織田信雄は父の織田信長に了解を得ずに侵攻したといわれています。
無謀に攻め込んだ結果、負けてしまいました。
織田信長の作戦負けではなく、次男である織田信雄の作戦負けだったのです。
第二次天正伊賀の乱 忍者VS侍
戦いは終わりませんでした。
再び織田家は伊賀国に侵攻を始めます。天正9年(1581年)9月に第2回の戦が開戦。
仕掛けたのは第1回の時に敗れた織田信雄。次男の織田信雄が破れてしまったのは織田家に汚名を塗ってしまったことにつながります。第2回は前回の教訓を活かして、織田家の有力武将、滝川一益と丹羽長秀らが大集結しました。
「総兵力は5万人とも」
前回は8千人でした。今回はいっきに5万人で攻め込んできたのです。織田家が小国に負けるのは織田信長が絶対に許さなかったのです。
「絶対に負けられない戦が始まった」
織田信雄の大軍勢に驚いた伊賀国の領主たちは籠城を中心としながら織田信雄との戦いを繰り広げていきましたが数が違いすぎて…。
人は恐怖を通り越すと笑ってしまうものです。
忍者でも多勢の侍には敵いませんでした。伊賀の人々が立て籠もった城は次々と落ち、最後の砦・柏原城がついに陥落。伊賀国の領主たちは、織田信雄に降伏をして第2次天正伊賀の乱は終結をしました。
まとめ
侍VS忍者の壮絶な戦い。
第2回の天正伊賀の乱では民衆まで巻き込まれてしまいました。
約3万人が殺害されたと言われています。
争いは良くないですね。市民は必ず巻き込まれます。
っとはいえ、闇の中で活動していた忍者が国を守るために唯一表舞台に出て戦った天正伊賀の乱はすごいですね。