トルコの住宅街の下から巨大地下都市が発見されました。
場所はトルコの荒野の町。ミステリーが広がるこの地下都市の正体とはどのようなものなのでしょうか?
謎の空間は思いもよらない形で姿を現すことがあります。
トルコの住宅街の下から巨大な地下都市を発見
トルコの住宅街の地下に眠る巨大な都市。
1963年のこと。
トルコのネヴシェヒルに住む男性が自分の家の壁を壊しました。すると、謎の部屋が姿を見せたのです。
男性はこの部屋を掘り続けると洞窟のような部屋がいくつも連なるトンネルを見つけました。
「地下空間の入り口?地底人か!?」
そして2013年、市の住宅建設プロジェクトでも見つかりました。ネブシェヒルの城を取り囲むように建っていた低所得者向け住宅を解体していた作業員たちが地下への入り口を発見。
その先にはトンネルと部屋が網の目のようにつながっている不思議な構造をしていました。
「市は建設プロジェクトを中止」
考古学者や地球物理学者による調査を開始しました。
2014年に居住空間・調理場・ワイン醸造所・礼拝堂・階段などを見つけ出して、多層構造の地下都市を確認します。
調査が進むにつれて中央アナトリアのカッパドキア地域の一部にあるデリンクユの地下都市が知られることになります。
精巧に作られた地下のネットワーク。ここにはいくつもの入り口や通気孔、それに井戸や通路が眠っていました。
カッパドキア特有の地形
カッパドキアはどんな場所なのでしょうか?
標高1000メートルの高原にあるアナトリアのカッパドキア地域は、火山活動のさかんな地帯です。
大昔に火山灰に埋まっていましたが、長年の堆積岩の浸食により、今に見られるようような溶岩ドームや、ピラミッド状の岩が形成されました。
現在も穴のあいた尖塔や石塔も残っているので観光名所になっています。
(出典:cdn.4travel.jp)
「自然の神秘!」
何千年も昔に、カッパドキアに住んでいたヒッタイト人が、火山灰の沈殿物が柔らかい石でできていることを発見し、岩を掘って部屋を作り始めました。
岩の中に部屋を作っていのです。
「なぜ岩の中にしたの?」
地下空間は温度が一定に保たれているためです。地上の厳しい気候から食料などを守ることができます。地下の部屋は始め、倉庫や食品庫として主に使われていたそうです。
(出典:cdn.4travel.jp)
昔の人の知恵で、冷蔵庫の代わりになっていました。
デリンクユの巨大地下都市
地上からデリンクユへの出入り口は、茂み・壁・住宅の中庭など100ヶ所以上に上り、直径1.5メートル、重さ500キロの大きな丸い岩のドアで閉ざされています。
トンネル内には、最大30メートルにもなるさまざまな長さの通気孔も無数に作られているのが特徴です。発見されている地下都市の中でデリンクユはもっとも深い85メートルまで広がっており、8階構造になっています。
完全な発掘は未だ終わっていませんが、考古学者たちは18ほどの層に分かれていると推定。
トンネルの中は光が届かず真っ暗となり、通路はあえて狭くしている特徴があります。これは、侵入者が縦一列になり這いつくばって進まなければいけなくなるからです。
トンネルはたくさんの洞窟につながっていますが、数万人を収容できるほど広い空間があります。
内部には、教会・食料品店・ワインセラーに、共有の会議エリア・食堂・雑貨店・礼拝のための神聖な場所に加え、武器を保管する武器庫・脱出するための秘密の逃げ道・家畜小屋や学校までもあります。
また、簡易的な墓地もありますが、遺体をそこで安置していました。さらに、最下層を流れる川には井戸を満たしており、飲み水を運ぶことができました。
「完全に地下都市」
複雑なトンネルができた理由
デリンクユの地下都市には、なぜトンネルがたくさんあるのでしょうか?
その理由はいつ・誰が作ったのかは、まだまだわからないことが多いですが、諸説あります。
ヒッタイト人が巨大地下都市を作った説
紀元前15世紀から12世紀の間に、ヒッタイト人がフリギア人の急襲から身を隠すためにトンネルを作ったという説があります。トンネルからはヒッタイトに関連する遺物が発見されているようです。
フリギア人が巨大地下都市を作った説
紀元前8~7世紀のフリギア人が都市を作り始め、発見されたヒッタイトの遺物は戦いの戦利品だという説があります。
フリギアの建築家たちは鉄器時代の精鋭で、複合建築の技術も優れていたことが挙げられます。また、フリギア人は長い間に渡り、この地域に住んでいたことは知られています。
ペルシャ人が巨大地下都市を作った説
デリンクユの建設について書かれた直接の文献はないものの、ゾロアスター教「ヴェンディーダード」に、偉大なる伝説のペルシャ王イマが地下に宮殿を建設し、人や家畜を住まわせたという話が出てきます。
(出典:blog-imgs-70.fc2.com)
カッパドキアは自然にできた岩を削ってできているため、伝統的な考古学手法で地下都市の年代を特定するのは難しいそうです。
しかし、デリンクユは紀元330~1461年のビザンティン時代に拡張したと考えられています。
この時代は、マラコペアという名前で初期のキリスト教徒がイスラム教徒のウマイヤ朝やアッパース朝の迫害から逃れるためにトンネルを利用していました。
「地下都市のトンネルは身の危険から仲間を守るためだった…」
しかし、時代が進んでいくとシェルターとしての必要性は薄れてきました。時代が変わるたびにその時代の人がトンネルの用途を変化させてきたのです。地上が平和になるとトンネルに隠れる必要はなくなります。
それで、トンネルは冷暗所や地下の納屋として使われるようになりました。
2世紀から3世紀のローマのキリスト教迫害のときは逃げるため、そして生き延びるために再び地下都市を利用することになり、トンネルも拡張されています。
カッパドキアの人々は危険が迫ると家畜を連れて地下都市に逃げ込み、丸い石の扉で入り口を塞ぎました。そして脅威が過ぎ去るまで地下で生活をしていたといわれています。
まとめ
時代とともに使い方が変わるトンネル。
侵入者から逃れるためのどんどんトンネルが広がっていきました。
地下都市は隠れ場所だったのです。